どこへでも行けるから
今日は一日バイトもない。朝から洗濯機を回して掃除機をかけて、排水溝もきれいにしてしまおうかとラギーが思ったところで玄関のチャイムが鳴った。量の多いいただきものなんかをたまにもってきてくれるブラウンか、一昨日通販で注文したサーキュレーターが届いたか、と思ってインターフォンのディスプレイを見るとそこには夕焼けの草原の伝統的な従者服を着た獣人が二人立っていた。
階段を降りてきたレオナを見ると既に訪問者が誰かわかっている顔をしている。レオナはそのままラギーの隣まで来ると黙って「応答」のボタンを押し、入れ、と言った。
リビングに通した故郷からの使者の話は簡単で、要するにレオナに帰ってきてほしいということだった。
「俺にやらせたいことはなんだ。決まってるなら具体的に言え」
「王族としての外交や貴族との懇親です。チェカ様はまだお若いですし……」
それはレオナでなくてはいけないようで、レオナでなくてもよいことだった。二人もそれはわかっているようで、申し訳ない、と頭を下げた。レオナに対して礼を尽くせる人間をわざわざ寄越してきたのは一応兄なりの気遣いなのだろう。
「どうしてここがわかった? 一応の小細工はしてきたつもりだったが」
レオナが言うと一人が何かの切り抜きを鞄から取り出して差し出した。
「この地方のローカル紙です。掃除係に旅行好きでこういったものの収集が趣味の者がいて、侍従長経由で王に」
それはあの怪魚退治の夜、砂浜での様子を写した写真だった。簡易照明と並べられたベンチ、町の人々の楽しそうな様子、その端の方に発泡スチロールの容器を手に笑うレオナとラギーが写っていた。どこにでもいるような、幸せに暮らしている獣人の青年二人にしか見えないこの写真を見て、王宮の人間たちはどう思っただろうか。それを考えると少し愉快な心地がするとレオナは思った。
「戻ってきていただけませんか」
二人はもう一度頭を下げた。
◇
二人は用件だけ伝えると大人しく帰っていった。ラギーは客に出したカップを片付けながら、お茶入れ直しますか、といってやかんを火にかける。レオナは頼む、と言ってソファに座った。
いざこうなると、思っていたよりも心は落ち着いている。問答無用で連れ戻され、最悪ラギーは王族を誘拐した罪で処刑という線もあり得ると思っていただけに、考えてくれとただそれだけ要求して去っていったのは穏便にすんだと言える。が、こんなにも冷静でいられるのはそのせいだけではないのだろう。本当は心の準備はとっくにできていた。
ローテーブルに入れ直したお茶を置くと、ラギーはレオナの隣に座る。
「ここ変な町ッスよね」
ラギーが喋るのをレオナは黙って聞く。
「訳ありっぽい人多いし、まあだからオレらみたいな人間にとっては人付き合いしやすかったッスね」
「……本屋の品揃えが意外とセンスよかったな」
「食べ物もうまかったッスね」
「ああ」
「魔法生物まで食うとは思わなかったけど!」
「そうだな」
自然と笑いがこぼれる。
「なんだかんだオレらちゃんとこの町で生活できてましたよね」
ちゃんと生活するというのがどういうことなのか、それはわからないが、ラギーと一緒にいられて、誰も傷つけずにすんで、空や海を見て今日まで暮らしてこられたのは確かだ。レオナはまたそうだな、と同意してラギーの淹れたお茶を一口飲んだ。
「逃げちゃいますか。もう一度」
これまでと同じ、今日の夕食はハンバーグにしましょうかとでも言うようなトーンでラギーはいった。レオナは何も言わなかった。
「オレはどこへでも一緒に行きますよ。それが、オレの願いだから」
ラギーが隣からレオナの顔をのぞきこむ。
「行き先がどこでも」
そう言ってラギーはカップのお茶を一気に飲み干した。
お互い何を考えているのか、もうわかっていた。第二王子とスラム育ち、出自は違うけれど、同じものを見て、同じものを食べて、同じ道を歩いてきた。だから、わかるのだ。これが終わりじゃないことも、これで終わらせる気はないことも。
コト、とラギーがカップを置く音がずいぶん大きく聞こえた、
「この町とはお別れッスね」
「ああ」
レオナが返事をする。
「帰ろう」
レオナがそう言うとラギーは笑って頷いた。
◇
その夜ブラウンを訪ね、故郷に帰ることになったと伝えた。どういうこと? とふっこちゃんが聞くので、遠くの国に帰ることになったからお別れだということを説明した。この小さな獣人の子供が声をあげて泣くのをレオナとラギーは初めて見た。
「世話になったな。急な話で悪い」
ふっこちゃんを抱き上げてあやすのをラギーに任せ、レオナはブラウンに謝罪した。
「いやそれはいいよ。仕方ない。それより」
ブラウンがすっと目を細める。
「君たちが望むなら他所へ移る手引きくらいするが」
静かにささやかれるブラウンの提案を、レオナは迷いのない声で断った。
「いや、いい。……あいつと一緒に生きていきたいから、次は逃げなくてもそうできるようにするつもりだ」
「……そうか」
レオナよりずっと年上のこの熊の獣人にはそれがそんなに簡単なことではないこともおそらくわかっている。だが彼はそれしか言わなかった。彼はできるかできないかを、隣人であるだけの人間が勝手に決めるべきではないことを知っている大人だった。
「……お前たちやこの町が俺たちを否定しなかったから、ここで暮らせたしそうできると思えるようになった。礼を言う」
「君たちもこの町とこの町の人を否定しなかった。それだけのことだ」
ブラウンは即座にそう答えると、うさんくさくない笑みをうかべて頷いた。
三日後には荷物をまとめ、レオナとラギーは寂れた最寄り駅にいた。少し離れた場所に夕焼けの草原につながる鏡の設置されたポイントがある。そこまではローカル線を乗り継いで移動する。
駅前には何もないが、高台にあるその駅からは海と今まで二人が暮らした町が一望できた。
見送りにはブラウンとふっこちゃん、むさしのおやじ、ママとアンさんが来ていた。
「さみしくなるねえ」
むさしのおやじが大仰に言う。表情は読み取りづらいが、声には本当にさみしさがにじんでいるように感じたので、ラギーもさみしいッスとこたえた。
「これは餞別ですよ。荷物になって悪いけどね」
おやじはビニール袋をラギーに手渡した。
「え、ありがとうございます。なんだろ。見ていいスか」
ビニール袋なんかに入っているから干物か何かだと思って、中にあった薄手の箱を開けると真新しい包丁が入っていた。
「私が修行に行っていた国で作られた包丁でね。いいものなので使いこなしてください」
おやじが右手を差し出したので、ラギーはその手を握り返した。刃物とは物騒な餞別だが、武器にも生活用品にもなり得るそれは、自分の門出にふさわしいような気がして、ラギーは改めて礼をいった。
「ええーおやじさんやるじゃない。そんないいもの用意してたの」
「これ私たちから。帰り道お腹空いたら食べてね」
アンさんに手渡されたのはきれいにパッキングされたクッキーだった。
「二人で仲良く食べるのよ」
「ありがとうございます。急にバイト抜けることになっちゃって本当に申し訳ないッス」
「大丈夫。私たちもがんばるから……ラギーくんもレオナくんもがんばって」
何を、とは言わないが、元いた場所へ戻る者へのエールとして二人はその言葉を受け取った。
「レオナさん、ラギーさん」
少し離れたところに立っていたふっこちゃんがブラウンに促されて駆け寄ってくる。家を出てからここまで一緒に歩いてきたが、その間もふっこちゃんは無言だった。目を赤く腫らして。
「これ、プレゼント。手出して」
レオナとラギーが手を出すと、ふっこちゃんは小さなドーナツを模した飾りのついたキーホルダーを手渡した。
「新しいおうちの鍵につけて」
「ありがとうふっこちゃん。大切にする」
「俺もドーナツなのか」
「ラギーさんはドーナツが好きで、レオナさんはラギーさんとおそろいだとうれしいでしょ。だからドーナツにしたの」
レオナもラギーも子供のあまりにまっすぐな言葉に一瞬目を丸くするがすぐに二人で大笑いした。
「気遣いありがとな。フッコチャン」
レオナがその名前を呼ぶとふっこちゃんは得意そうに笑った。
「また遊びに来るッスよ。今度はいっしょにラムネのみましょ」
「ううん、ふっこちゃんが遊びにいきます。しゅわしゅわも飲めるようになります。それと」
ふっこちゃんが、かがんでくれと服のすそをひっぱるので、二人はしゃがんでライオンとハイエナの耳をかたむける。
「ふたり、ずっといっしょにいないとふっこちゃん遊びに行けなくなっちゃうからね」
真剣な顔でどういう道理なのかわからないことを言う。だけどこの子がそういうなら、そういうものなのだろう、とレオナもラギーも納得した。
「わかったッスよ。二人で待ってる。ドーナツとラムネ用意して」
「ちゃんと自分で確かめに来いよ」
菓子をかたどった輪っかを握ったまま、小さな右手と左手にレオナとラギーはそれぞれ小指をからめて、指切りをした。それが約束なのか、願いなのか、誓いなのかはわからないが、果たすことが難しいとは今の二人には思えなかった。
こうして二人の駆け落ち生活は終わりを告げた。鈍行列車に乗るときに見えた海は、相変わらず太陽の光を反射してきらめいていた。
◇
「レオナさんただいまー!戻ってますー?」
白と黒を基調としたシンプルな今風の玄関で靴を脱ぎ捨てて、ネクタイを緩めながらラギーは家に上がった。レオナがリビングから顔を出し
「俺も今戻ったところだ。あ、ばあさんからポストカード届いてたぞ」
とテーブルの上の郵便物を指して答える。
「直帰できたのが幸いッスね。今日は絶対早く上がるつっといてよかった。おっばあちゃん今南国かあ。いいなあ。」
「うまくいったのか」
ラギーはポストカードを手にウインクしてみせた。
「当然。あっちの提案資料の最終版、レオナさんの方送っといたんで、目通しといてください。あっアズールくんの件もさっき連絡来てました。」
立ち上げた会社は周到な準備と学生時代に築いた人脈のおかげで順調で、当初目標としていたスラムの区画整理と雇用創出に少しずつ手をのばし始めたところだ。
「遠からず王室に戻ると考えたから、恩を売るつもりで支援したのに、まさか正式に王籍を抜けるとは思いませんでしたよ」
駆け落ちの支援を依頼したラギーの同級生は、今の仕事を始めたときにため息交じりにそう言ったが、事業を軌道にのせるまでなんだかんだ相談に応じてくれ、よきビジネスパートナーとして付き合いもでき、今では投資結果に満足しているようだった。これは推測だが、現状からの脱却という悲願については彼にも思うところがあったのだろう。
「またふっかけてきてねえだろうなアイツは……」
「伏せてるはずのこと全部知ってて条件つけてきますからね……まあこっちとやり口似たとこあるから味方につけちゃえばやりやすいんスけどね」
「まあな。なんだかんだ変わらねえよアイツらも俺たちも」
あの頃は自分たちがこんなにも自由になれるとは思っていなかったし、いまだに一緒にいるとも思っていなかったが、変わらないものはあるのだ。そういうものも支えにしてきたのだと、レオナは思う。
「でもふっこちゃんはめちゃくちゃ変わってますよね?今十六歳とか?おっさんになったとか言われたらどうしよ」
「諦めろよ」
レオナが笑い飛ばすとラギーはむくれる。レオナはラギーに近寄るとその額に自分の額をくっつけて、はいはいかわいいかわいい、と言って笑った。
時計を見るともうすぐ十九時。遠方から久しぶりに会うお客様が来訪するまであと少しだ。
嘘もハッタリも得意分野の二人だが、あの日の誓いは今日まで真実として守り続けた。
あの日あの海沿いの町で始めた生活がいつまで続くのか、どこに至るのかなんてわからなかったが、自ら選んだ場所で暮らしてゆくことができたから、何かに依存したり邪魔されたりしないで自分たちのしたいように生きていけるのだと二人は思えた。そして自分たちの欲望を叶えるための様々な戦いを経て、今この生活を手にしている。
人生は長くやりたいこともやるべきこともたくさんある。そして欲しいものを手に入れて二人で喜びあえたら、それをきっと幸せというのだろう。
キーボックスにはドーナツのキーホルダーがついた鍵が仲良く並んでぶら下がっている。そして――二人の左手の薬指には金属のリングが柔らかく光っている。
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