ボーダーライン

 車の運転という行為は対外的には趣味だとか息抜きだとか言っていたが、その本質は逃避であるということはレオナ自身にはとっくにわかっていた。

 広い草原を走っていると、嫌なものは目に入らずいるのは動物たちだけで、まるで自分だけの王国みたいだ――というのが運転免許を取得できる自分の年齢にあまりにもそぐわない感傷で笑ってしまう。それでも自分のいる面白くない世界と隔てられているような感覚に随分と慰められたというのは確かだった。ナイトレイブンカレッジに入学するまでは。

「ラギーを誘わなかったの、珍しいわね」

 ちょうどレオナと二人だけになったときに、ヴィルが小声で話しかけた。

「実際やってみたら体格だけがものをいう競技でもないんだからラギーでも良さそう。むしろ結構得意なタイプなんじゃない?」

 話したくない事情があるなら、別にただの雑談だから別にいいけどと付け加えた。ヴィルは外見の美しさと堂々とした態度から尊大に思われることが多いが、根が真面目でついでに人の心の機微にも敏い人間なのだ。

「別に。呼びたくなかっただけだ」

「喧嘩でもしたの? あんたから謝ってさっさと仲直りしなさいよ」

「違う」

 伝統的なこの国の衣装を着て、伝統的な祭りに参加し、伝統的な競技に取り組んで、笑うラギー。それを想像するだけで、レオナは言いようのない気分の悪さに襲われた。サンセット・ウォーリアーなんて下らない称号だと笑い飛ばしているのに、それがラギーに与えられるのは、ひどく許せない気持ちになるのだ。

 夕焼けの草原はラギーの故郷でもあるけれど、ラギーはこの国の王のための臣民ではなくスラムのハイエナであってほしいと思った。やっと手に入れたいものが手に入ったのに、それが自分ではない誰かのものだということをどんな形であれ認めたくなかった。

 だから、誘わなかった。

「……まあいいわ。オヤスミ」

 ひらひらと手を振ってヴィルは部屋へと戻っていった。黙ったままのレオナをそのままにして切り上げたのはヴィルなりの気づかいなのだろう。どちらかと言えば相手との境界線を踏み越えることにためらいのないタイプであるにも関わらず、今退いてくれたのはそこは踏み越えられたくない領域であることをヴィルが察してくれたからだ。

 嫌なこと、嫌なもの、嫌なやつ。そういうものとは線を引くに限るとレオナは思う。関わってどうにかしようとするから負の感情が生まれるのだから、自分から触れなければ良い。運転しているときの頬を撫ぜる風が、流れていく景色が、そういうものとの境界線になってくれていた。

 だから入学してからは車を運転することがなくなった。学園の中はドライブ中のように嫌なものと隔てられていることを感じることができた。あれだけの渇きが、どこか満たされるような心地がした。面倒だから、というのは嘘ではなかったが、王宮にいた頃の抑えきれない逃避への衝動が起こらなかったから、その必要を感じなかったのだ。そしてその暗い感情と深く結びついている行為を、学園という自分の王国に持ち込みたくもなかった。

 今回の里帰りの前、学園での知人たちを乗せて運転したらどんな気持ちになるだろうと本当は少し考えていた。逡巡とまではいかないがやや足踏みをしてしまうような、そんな感じがするとレオナは思った。純粋な移動のための行為と考えれば自然なことであるのに、未だそんな感傷を抱える自分を持て余すしかないのがまた可笑しかった。

 だが、そんな鬱屈とした懸念を吹き飛ばすように、大会からの逃走は心から笑うことができた。この国は何も変わらないから、変わったのは自分なのだとレオナは感じた。

(もういいのか)

 広がるサバンナの土の匂いがする乾いた風を感じる。それがレオナを守ってくれるわけではないことに、本当はもっと前から気づいていた。

(ただ、楽しくていいのか)

 道は悪くガタガタと車体は揺れ、とても快適なドライブとは言えない。しかし、今までで一番明るいエスケープだ。走ることがただ楽しい。レオナは初めて運転中に自嘲ではない笑みを浮かべることができた。

 そして自分の心に突き動かされるままに、象徴たる仮面を思い切り投げ捨てた。与えられないとか奪われるとかそういうことではなく、自分の手で捨てるという手段があることをどうして忘れていたのだろう。

(手元に置くものは自分で選べばいい)

 先ほどまでの雨があがり、強く太陽の光が降り注ぐ。それは時に大地を干上がらせる恐ろしい力を持つものだが、今のレオナには祝福のように感じられた。

 学園に戻ってきたその日、レオナは夢を見た。

 懸命にマジカルペンを振って防衛魔法を使う。それは普段使っているような壁のようなものを出現させる魔法ではなくて、地面に魔法陣を描くように光の線が引かれる魔法だ。そして四方から黒いどろどろとしたインクのようなものがその線を超えようとやってくる。

 これはブロットか、と気づくがどうしようもない。ごぼごぼと音を立てながら線の内側に侵入を開始する。

 また駄目なのかと思ったその時、ペンの先から何か生き物が飛び出した。召喚魔法も使っていないのに一体何だと目をこらすと、それは小さなラギーだった。ラギーの部屋にあるイボイノシシの貯金箱と同じくらいのサイズのラギーが一度レオナの足元に落ちると、そこからまた跳躍して光の線を超えてブロットの中へ飛び込んでしまった。

「馬鹿野郎!」

 レオナは思わず叫んでブロットの中に手を突っ込もうとしたが、小さなラギーはブロットをものともせずにその中を泳いでいく。ブロットの中を泳げるなんて聞いたことがない。

 唖然としてレオナは小さなラギーの少し不格好な平泳ぎを見守るが、するとラギーの泳いだところからブロットがさあと引いていき、そこにはただ真っ白な道ができていった。

 小さなラギーはついてきてと言うかのように得意げな顔でレオナの方を数回振り返り、そしてまた進んでいく。仕方なくついていくうちにいつの間にかブロットは消え失せていて、そこには真っ白な空間が広がっていた。

 小さなラギーはどこも汚れていない。何ともないような顔をして腕で大きな丸(レオナから見たら小さいが)を作ってシシッと笑っている。

「なんだ……?」

 成功のマル? OK?

 図りかねていると小さなラギーは口をとがらせて少し怒っているような顔をした。その顔を見てレオナはそれが要求であることを理解した。

「ドーナツか」

 小さなラギーはまたシシッと機嫌よさげに笑う。するとその目の前にミニチュアサイズのドーナツが六つほど積まれた皿が現れ、そのラギーらしき生き物は上から順にドーナツを食べ始めた。いや、この食べ方は小さくても確かにラギーだとレオナは思った。

 すっかりドーナツをたいらげてしまった小さなラギーは何か言うように口を動かすので、レオナは読み取ろうと顔を近づけた。

 相変わらず機嫌良さそうに、その口をめいっぱい大きく動かしてレオナに何かを伝えようとする。

 あ り が と

「お前、」

 そんなことで、と言おうとして目が覚めた。どう考えても夢だったのにさっきまで実際にそこにいたような、現実との地続き感がある。境界線を超えてブロットに飛び込んでいったラギー。あれは――。

「レオナさーん! 今日こそ1限の授業ちゃんと出て――って珍しい起きてら」

 不思議そうな顔をしてちゃんとしたサイズのラギーが呟く。目尻に残っていた水滴を誤魔化すようにレオナは大きめのあくびをした。今は少し顔をあわせづらかった。

「まあいいや。あ、そういえばレオナさん今日ちょーっと勉強見てほしいとこがあるんスけど……。魔法史の今やってるとこ難しくてついていけてないッス」

「ついていけなくなる前に聞けそういうことは」

 レオナがそう言うとすみませんってと誤魔化すような笑い方をして、じゃあ放課後どっか空き教室でもいいッスか? と約束を取り付けてきたので応じた。そのくらい安いものだと先ほどの夢を思い出しながらレオナは思った。

「だからここで言う近代的価値観はA群のことだろ。政府がA群で教会がB群。よって教会に集った民衆が支持してるのは伝統的価値観の方なんだよ」

 二年の魔法史の授業では社会と魔法の関わり方に関する論文を今の単元で扱っているらしい。社会学的な考え方が前提となるので、ナイトレイブンカレッジが初めて通う学校であるラギーには少し難しいかもしれないとはレオナも思う。内容としてはオーソドックスな二項対立を軸とした論展開なので、そのあたりを重点的にレオナは説明した。

「政府と教会が対立するっていうのがよくわかんなくて……。どっちも権力者なのかなと思ったら民衆とはどっちも仲良いし、というかそれで民衆の中にA群派とB群派がいるっていうのがやっぱり謎ッス」

 黒板にレオナが書きだしたA群とB群の項目を見つめながらラギーは眉間に皺を寄せていた。

「そこはそういうモノの考え方だから、計算問題の公式なんかと同じでそういうもんだと思うしかねえよ」

「それが難しいんスよね」

 難しい顔をしたまま、レオナの板書した内容を上から順に音読していく。

 そしてA群が王、B群が臣下の行にたどり着くと、急に悪だくみを思いついたような顔をして笑った。

 なんだ? とレオナが訝し気に視線を返すと、ラギーは王と臣下の間に引かれていた線を指ですっと消した。

「こんな境界線、なくすべきッスよ」

 チョークの白い粉のついたその指先は、レオナには魔法で光っているように見えた

 それから、免許を持っているのを黙っていたことを少し怒られるかもしれないが、このハイエナを今度助手席に乗せてドライブをしようと思った。

0コメント

  • 1000 / 1000