隣人の話
住む場所が見つからない。
コンビニでの一件後、レオナとラギーは件の遺跡の発掘作業員用の簡素な宿泊所に泊まり、チェックアウト後すぐに、これで商売になってるのかといった風情の不動産屋を訪れた。壁が薄くあまりに手狭、設備も整っているとはいえない宿での長期滞在は絶対にごめんだと気合を入れてやってきた二人は早速行き詰っていた。
「出入りは多いけど住み着く人は少ないからこのあたりは物件がそんなにないんだよねえ。もう二駅先のね、西町ねえ、あのあたりはいくつかアパートみたいなのもあるんだけど。このあたりですとねえ、こことかあるけど、これほとんど廃屋だから、人が住めるとは思わない方がいいねえ」
この店の店主らしき年配の男が物件情報をとじたファイルをいくつか机の上にならべ、ページをめくりながらのんびりした口調で説明をする。
人の出入りが多い場所ではあるが、住処を求める人が少ない、というのは自分たちがこの町を選んだ条件と照らし合わせてもそうだろうと二人は納得したが、場所選びから振り出しかと思うとがっかりはした。条件付きで悪どい旧友に準備してもらった小細工された身分証の類も出番は先になりそうだ。
「あ」
二人が立ち上がりかけたところで、店主は何かを思い出したように声をあげた。
「お客さん、まだ時間あるかなあ」
二人がうなずくと、彼はどこかへ電話をかけはじめた。休みでよかったとか部屋をこのへんで探してる人がいてとかこちらの事情を話して、結果相手はここに来るらしかった。
「今ね、空いてる部屋持ってる人、ここに来るからねえ。貸してくれるかまだわからないですけども」
◇
「あ」
「おや」
不動産屋に入ってきたのは昨日のインテリ風の熊の獣人の男と猫っぽい獣人の女の子だった。
「サバンナの風さん、もうどこか行っちゃったかと思ったけど、この町気に入ったのかな」
熊の男がそんなことを言い出すものだから、レオナが面白そうに、おい気に入ったのかだってよサバンナの風、とラギーを小突く。ラギーはうるさいっすよもー、と不満げな声をあげたが、そんな二人に向かって女の子がせいいっぱい大きな声を出そうとしましたという風なそれほど大きくない声でこんにちはというので、ラギーはころっと表情を変えてはいこんにちは、と挨拶を返した。
「あれお知り合いだったんですかねえ」
不動産屋がのんびりと言う。
「知り合いというほどではないけど、昨日会ったんだよ。ちょっとね」
昨日の事件は新聞の片隅に小さく載っていただけだった。事件のことを知っていたとしても誰がそこにいたかまでは不動産屋は知らないのだろう。
「へえ。じゃあ何か縁があるのかねえ。この人たち部屋借りたいっていうんだけど、コーポサンライズ今埋まっちゃってるんだよ。みよし荘も去年若い夫婦が越してきていっぱいだし、でも西町じゃなくてこっちがいいっていうんだよねえ。それでね、ブラウンさんとこ半分誰かに貸してもいいって前言ってたなあと思って。急で悪いんだけど、この人たちに貸すのちょっと考えてみてくれないかなあ」
不動産屋はそれほど仕事熱心には見えなかったが、見ず知らずの人間の部屋探しのために、知り合いに頼んでくれる親切心はあるらしい。この地に頼れる人間も伝手もない二人にはありがたかった。
「良いよ」
ブラウンさんと呼ばれた熊の男は即答した。
「今から見に来られるかな? 見て気に入ったら、決めてもらえばいいよ」
あまりにも話がうまく進むのでレオナもラギーも呆気にとられていたが、すぐに礼を言い内覧させてほしい旨を伝えた。
「不動産屋さんもありがとうございます。助かったッス」
「決めたらここに戻ればいいか? ファイルになかったってことは正式に登録してる物件じゃないのか」
レオナが聞くと不動産屋は
「いや、賃貸の物件ってわけじゃないし、ブラウンさんのところに居候って形になるんじゃないかなあ。だから細かい登録とかはうちではやらないし、お金もいらないよ」
「マジ!?」
「私も家賃とる気はないよ。条件はつけさせてもらうけど。それはまあ見てもらってからで」
たて続けにタダという魅力的な概念をぶらさげられ、さすがのラギーですらもとんでもないボロ家を押し付けられるのではと警戒していたが、ここだよ、と案内されたメゾネットタイプの家の半分にあたるその住まいは、古すぎず、掃除もされていて、品のいい家具もいくつか置かれていた。
キッチンは最新式ではないがきちんとした料理をすることが想定されているつくりになっていて、二階には寝室と、中身は空だがガラス戸つきの本棚がいくつかある書斎らしき部屋がある。清潔な洗面台とバスタブ付きの浴室。ゴーストが住み着いているといった感じもない。ますます話がうますぎる。レオナとラギーは顔を見合わせた。
「半分は私たちが住んでるけど、こっち半分は全く使ってないんだ。一応掃除はしてるけど、そんなに丁寧にはしてないから気になるようなら大掃除して。インテリアとかこだわりあるほうだったら家具は処分してくれてもいいし、特にないならそのまま使ってくれていいよ。照明類はあるけど家電はないから、そのあたりは必要なものがあったら自分たちでそろえてね。ガスと電気と水道は私たちのほうと共通で通ってるから、すぐ使えるよ。寝具もお客さん用にそろえてあるものがあるから収納から出してセットすればいい。」
「いやめちゃくちゃありがたいッスけど、話うますぎません? 死体隠してるとかじゃないッスよね?」
猫科の少女が、したい、と呟いて耳としっぽをぴんと立てる様がかわいらしい。子供のいる場所でする話ではないかもしれないが、二人は家賃タダの理由を確かめずに幸運だと喜べるほど馬鹿でもなかった。
「理由かあ……」
ブラウンはすこし考え込むと、二人の目をじっと見た。そしてまたうーんとうめいた後、まあじゃあ正直にいうけど、と前置きして彼は話し始めた。
「理由は二つある。一つは昨日この子を助けてもらったお礼、もう一つは私も訳ありでここにきた人間だから、他人と住むのはいいカムフラージュになるかなと思ったし、同じように訳ありっぽくて獣人の君たちはちょうどいいと思ったんだ」
「お前……。魔法士か」
レオナの「少女を助けたのはレオナとラギーではない」という記憶改ざんに対して裏で防衛魔法を働かせることができるレベルの魔法士。わざわざそう悟らせないための工作までしているのは「二つ目の理由」のせいか。ただ、もしこちらを害する目的があるのなら、魔法に対して抵抗力があるという手の内を見せる必要はないはずだ。辻褄があったことでレオナは警戒レベルを一気に下げ隣で静かに威嚇するラギーの肩をぽんと叩き、まあ落ち着け、と臨戦態勢を解くよう促す。
「住処としては悪くねえ。それにお前の言う通りこっちも訳ありだ。仲良くできるならありがたい話だ」
ラギーもまあレオナさんがそう言うなら、とひとまず納得した。
「で、こんな良い家をタダで貸してくれる条件って何なんスか? オレらを住まわせるのが都合がいいっていったって普通に家賃とってくれればいいのに。格安で」
まだ少し訝しげな響きをもって、ラギーはブラウンに尋ねる。
「仕事を頼みたいんだ」
「どんな」
「なんの」
レオナとラギーの声が重なる。暗殺か、薬の運び屋か。
ブラウンはこともなげに答えた。
「うちの子の幼稚園の送り迎え」
お願いできるかな? と熊の獣人は首をかしげる。
少女は話の途中あたりから少し離れたソファに座ってうとうととしていた。
「それだけッスか? あ、幼稚園の送り迎えって何かの隠語?」
「いやそのままの意味だけど……。私が仕事に出るのが、朝早くてね。シッターさんに頼んだりしてるんだけど、今まで頼んでた学生さんが就職で引っ越すことになっちゃって。」
困ってるんだよね、とブラウンは全然困ってなさそうな口調で言う。
「ガキの面倒なんて見られるか」
「レオナさんそこは折れてくださいよ! 本当にその条件でこんないい家借りられるならこんないい話ないッスよ。だいたいオレよりレオナさんの方が住む場所クソなの我慢できないでしょ」
元気すぎる甥っ子に懐かれていたレオナにとって子供の世話は苦い思い出を呼び起こすものなのだろう。だが、本当に子供の送り迎えで家賃免除とあらば、見逃す手はラギーにはない。
「レオナさん」
大きな出窓からあたたかい日の光が差し込んでいる。昼寝をするには最高の場所だ。
「レオナさん」
もともと買い物はラギーのほうが得意なのだ。いいものを安く。今までだってだいたいラギーに任せておけば間違いはなかった。
「レオナさん!」
「……わかった。その条件でここに世話になる」
光熱費の話や幼稚園の場所の説明と送迎者証の受け渡し等をすませてブラウンたちは自分たちの住む側に帰って行った。自分たちのやろうとしたことで、今までこんなにことがうまく運んだことがあっただろうか。
「オレ生まれて初めて神に感謝したかも」
「条件は神の嫌がらせかと思ったけどな」
「まだ言ってる」
しばらく収納したままだったであろう防虫剤のにおいがするカバーをかけたベッドの上で、少しやらしいことをしてその日は早めに眠ることにした。
「寝室があっちの家側じゃない方でよかったッスね」
うるさくしてもダイジョーブ、と言ってラギーが笑うので、レオナはやっぱり買い物はコイツに任せておくのがいいなと思った。
◇
「おはようございます」
「おはようふっこちゃん。パン焼けてるッスよ」
この家で暮らし始めてから一週間。朝ブラウンが子供を伴ってこちらに連れてきてから仕事に向かい、子供は二人とともに朝食をとってから幼稚園に行く、というのが日課になっていた。
朝食は食べさせてから連れてくるといったブラウンにこちらで朝食も用意すると提案したのはラギーだった。あまり朝早く食べて昼食前におなかをすかせるのはかわいそうだし、こちらの食事中に小さい子供を放っておくのもしのびなかったからだ。
初日にふっこちゃんと呼んでください、と自己紹介した少女のその名前はあだ名なのか本名なのかわからなかったがラギーは気にせずその通り呼んでいた。レオナが言うにはブラウンというのはおそらく偽名だろうということだったので本当の名前はなにひとつわからなかったが、自分たちも名乗ったファーストネームこそ本名だが素性はなにひとつわからないのでお互い様だ。
訳ありだから訳ありの自分たちを住まわせることにした、と家主は言ったが、こんな小さな女の子を素性の知れない若い男二人組に任せるのはいささか危機感が足りないのではないかとラギーは思った。実際自分たちが彼女に危害を加えることはないといえるからそれも些末なことではあるのだが。
「朝ごはん食べたら髪やったげる。今日はどうする?」
「おだんごがいいです」
「了解ッス」
ふっこちゃんは苺ジャムの蓋を開けようとしていたがなかなか開かないようだった。ベーコンを焼きながらラギーがレオナに視線を送ると、レオナは無言でジャムの瓶をとりあげて蓋をあけ、おらチビ、といって彼女に返した。
「ありがとうだけどチビじゃないです。ふっこちゃんです」
コンビニの件でも感じられたが、彼女はおとなしいが決して臆病ではないらしい。
「あー悪かったなフッコ」
「ふっこちゃんです」
ふっこちゃんまでが彼女の名前らしい。レオナはラギーに「なんとかしろ」の視線を投げた。
「レオナさんは女慣れしてないから女の子をちゃん付けで呼ぶのが恥ずかしいんスよ」
ラギーはニヤニヤしながらベーコンとサラダと卵を乗せた皿を並べ、じろりと睨んでくる視線を無視して野菜も食べるんスよ! とレオナに釘をさす。
「女の子……ちゃん付け……恥ずかしい……」
ふっこちゃんはラギーの言葉をもやもやと繰り返していた。
「じゃあレオナさん、オレそろそろ行ってきます」
「レオナさんいってきます」
おお、だか、ああ、だかの返事をレオナが返し、二人で幼稚園に向かう。ふっこちゃんはもの静かで聞き分けが良い子供だから、朝食をとるにしても送り迎えをするにしても負担になることは特になかったが、三人で行動する必要もなかったので送り迎えは主にラギーの仕事だ。スラムで近所の子供の面倒を見ることが多かったため、子供一人の相手は大して苦ではない。
海沿いの道を獣人の青年と少女は手をつないで歩く。観光地へ向かう道で車の行き来があるおかげか、歩道とガードレールがきちんと整備されていて、散歩にはちょうどいい。故郷では馴染みのなかった潮のかおりがまじったやさしい風が吹いている。子供の手はあたたかくて眠くなりそうだとラギーは思った。
家賃代わりのふっこちゃんの見送り、昼前からはランチのキッチンの仕事、十五時頃ふっこちゃんのお迎え、夕方からは酒も出すカフェダイニングでバイト。今日は一日やることがある。
レオナは家で魔法翻訳関連だかのデスクワークをしている。卒業したら王宮に閉じ込められっぱなしかとラギーは思っていたが、レオナは在学中から少しずつ外で金を稼ぐつながりを作っていた。能力もプライドも高いが、人の力を借りる必要があるときはそうする人間なのだ。ラギーはともかくレオナは第二王子として対外的に顔が全く知られていないわけではないから、外に出ずに仕事ができればそれだけ素性が知られるリスクは下がる。
それから、学校にいた頃は想像もできなかったが、ラギーはレオナに洗濯周りは教え込んで家にいるのだからとやらせるようにした。嫌な顔もそれほどせずに、わかった、と言ってラギーの指示に従い洗濯物を干すレオナの姿はなかなか胸にくるものがあったが、それはあのレオナがという感動の他に本当に駆け落ちして二人で暮らしているんだという感慨もあった。
金なら今は持ち出したものが十分あるし、家賃なしですんだのも大きい。しばらく働かなくてもなんとかなる状況ではあるからゆるいバイトレベルの仕事を週に数日する程度ではあるが、この暮らしをずっと続けることを思うと働くという行為はしていたほうが良いようにラギーは思った。社会から隔絶された暗い部屋で日がな一日セックスだけするような暮らしをするような生き方をする可能性も自分たちにはあったのだろうか、とラギーは想像してみる。そういう生活をしようと思わないのは、昔に比べて大人になったということでもあるし、他人に心を許せるようになったということでもある。
学生時代は不思議な万能感にあふれていた。そしてあの頃よりできることは増えたはずなのに、今はあの頃より自分に比べて世界が広く大きく感じる。だがその広い世界で二人きりにならず、こうしてよき隣人にも恵まれて、生活していけることが少しうれしいとラギーは感じていた。
ふっこちゃんは朝食に出したチーズのオムレツがおいしかったという話を始めた。チーズも卵もまだあるから明日も同じものにしようかとラギーが言うと、小さな隣人は目を大きくあけてつないだ手を握る力をすこし強くしてありがとうと言った。
幼稚園の入り口までふっこちゃんを送り届ける。ラギーさんいってきます、と声は小さいがはきはきと言って手をふるのでラギーもいってらっしゃいと言って手をふって別れた。
と、そのときふと棘のあるを感じた。スラム出身のハイエナに向けられていた、かつて馴染みのあった、よく知っている視線。ただ、故郷を遠く離れた獣人のほとんどいないこの土地で、同じ不快感を感じたことは他ではない。気のせいだろうか、獣人が珍しいということもあるか。それとも故郷のことを知っている人物でもいるのだろうか。
一応レオナさんに報告は入れておくか、とラギーは幼稚園を後にした。気にはなったが探りを入れれば目立つことになるだろうし、そろそろ家に戻りレオナの昼食を用意してからランチのバイトに向かわなくてはならなかった。
◇
「ラギー、出るなら俺も行く」
昼のバイトが終わってスーパーと個人商店の中間くらいの規模の店で食材を買って帰り、少し掃除機をかけたらもう幼稚園に行く時間だった。送迎者証と財布とスマホを持ってラギーが家を出ようとしたところでレオナが書斎から出て階段を降りてきた。
「どうしたんスか。あんなに行きたくないって言ってたのに」
「本屋に用事があるからついでだ」
朝ふっこちゃんと手をつないで歩いた道をレオナとラギーは並んで歩く。ここでの生活が始まってお互い少し忙しかったから、こんな風に外を二人で歩くのは久しぶりだった。海は日の光を反射してきらきらと輝いている。
「そういえば今朝ちょっと嫌な視線感じたんスよね」
「……まだ嗅ぎ付けられた形跡はなさそうだったが」
「あ、いやそういうんじゃないッス。なんというかハイエナ差別とかそういう感じの。こんなところでそういうのがあるとも思えないんで、たまたまあっち出身の人がどこかにいたのかもしれないッスけど」
「はあ……こんなところでもあるんだな。そういうの」
くだらねえ、とレオナは呟いた。くだらない、だけど今までずっとそういうものがまとわりついてきたし、きっとこの先もそうなのだろうと、レオナもラギーもわかっている。
幼稚園ではやはり無遠慮な視線をどこかから感じた。レオナも気づいているようだった。だが周りには恐ろしい姿の化け物や屈強な兵士は見当たらないし、王宮からの密偵が潜んでいるふうでもなかった。無害そうな、ごく普通の親の顔をした人間しかいなかった。
あ、レオナさんがいる、と声を上げてふっこちゃんがこちらに来た。なんで来たの、と子供らしい無遠慮な質問に来ちゃ悪いかと大人げない態度でレオナが答えるのでラギーは笑った。ふっこちゃんを間に挟んで三人で並んで歩いて、本屋に寄って、それから家に帰った。
「うちの子と仲良くしてくれてありがとうね」
ラギーがカフェでの仕事を終えて帰ってきた頃、ブラウンが訪ねてきた。遅い時間にすまないね、と言ってやってきた彼は昼間レオナが気まぐれで買ってやった絵本の礼にきたのだった。
「よく俺らみたいなうさんくさい連中にあんな嬢ちゃん預けられるな。そういうの女の子供の親なら警戒するものなんじゃないのか」
「いやまず君たちは自分で思ってるよりうさんくさくはないよ。私の方がよほどうさんくさいだろう」
レオナとラギーはそれはそうだと思ったが口には出さなかった。
「それとね、まあなんとなく気づいてるかもしれないけど、私はあの子の親じゃないんだよ。事情があってお預かりしてるだけなんだ」
そうだろうなと二人は気づいていた。発現している種族の特徴も違うが、ブラウンとふっこちゃんはそもそも全然似ていない。似ていないだけではなく、ふっこちゃんがブラウンのことをおとうさんだとかパパだとかそういった呼び方をするのを一度も聞いたことがなかった。ブラウンにうさんくさい自覚があることの方が二人にとっては意外だった。
「あとこれはどうでもいいことなんだけど、訂正しておくとあの子は男の子だよ。女の子の恰好をしたいっていうからさせてるけど」
これには二人とも驚いて顔を見合わせた。どちらもまったく気がついていなかった。確かに子供は男女でにおいにまだあまり差が出ない。当然のように女の子扱いをしていたが、そういえば今朝の反応が変だったのはそのせいだったのか、と二人は納得したのだった。
「いい子だろう」
そのとおり、ふっこちゃんはいい子だった。挨拶ができて、きれいに食事ができて、手をつないで歩くことができた。レオナとラギーにとってはそれでよかった。
「いい子ッスね」
ラギーが答えた。レオナは何も言わなかったが、特に異存もなさそうだった。
ブラウンは少しほっとした顔をしているように見えた。ほっとするようなことだったのだろうか、とラギーは思った。見たことのある表情な気がしたが、それが自分の祖母が時おりしていたものであることまでは気がつかなかった。
「ふっこちゃんは男の子なんです」
翌朝改めて本人に告げられた。ブラウンがその話をしたことをふっこちゃんに話したらしい。
彼女が彼女なりの言葉で話すことには、女の子になりたいとか性別に違和感があるとかではなくて、女の子の恰好をすることが好きということだった。一度話を切って黙り込むがまだ何か話したそうにしている。
「何か話したいなら話せ。今はそういう時間だ」
レオナがしゃがみ目線を合わせ、諭すように言った。優しい声だった。
「……ふっこちゃんが」
その続きを二人は黙って待つ。
「ふっこちゃんが、男の子なのに、女の子の恰好をしてるのは、困りますか」
まっすぐな質問だった。この子供の黒い瞳はいつも目の前のものを真剣に見つめているのだった。
「何も困らねえよ」
レオナがさっきと同じ声で即答した。
「困らないッスね」
ラギーも同意した。
「今日は髪型どんな風にします?」
ラギーが聞くと、ふっこちゃんはぱっと笑顔になって
「みつあみ!ふたつ!」
と答えた。
◇
その日から家賃がわりの仕事にはレオナも加わり、三人で幼稚園まで行くようになった。あの嫌な視線の正体もだいたい理解できた。つまりハイエナでも第二王子でもなく、ふっこちゃんという存在に向けたものだったのだろう。案じていたようなものではなかったが、気分のいいものではなかった。
初めのうちは、若い男二人、しかもこのあたりではあまり見ない獣人が子供を連れてくる様子が珍しいといった空気があったが、しばらく経てばたいていの親たちは忙しく、細かいことを気にしていないようだったしわざわざ話しかけるような手間をかけるほどの関心はなさそうに見えた。だからいつも通りふっこちゃんを迎え家に帰ろうとしたところで、自分たちを遠巻きにみてひそひそとしていたグループが話しかけてきたことは意外だった。
陰口は裏で言うことに意味がある娯楽ではなかったか、とレオナは思った。本人に聞こえるように言うが本人に直接は言わない、事実であったりなかったりする曖昧な悪意を薄くのばしたような陰口にレオナは慣れていた。
こんにちは、と言われたので挨拶を返すとあなたたちは親戚の方? と相手は言う。親戚ではないですが、同郷のよしみで家を貸してもらってるんです、だからちょっと手伝いをさせてもらってて、とラギーが答えると、ああそうなの、と他人事みたいな返事をされた。自分がきいておいて興味のなさそうな返事だとラギーは思った。他に興味のあることがあるのだろう。
この町が気に入ったんですが物件が見つからなくてあきらめかけてたんです、だからブラウンさんには感謝しているんですよ、とレオナがいままでみたことのないような愛想のよさでにこやかに説明する。顔の良さと普段は出さない品の良さで、相手が少し高揚した様子になったのをラギーは見逃さなかった。
いえねえ、ふっこちゃんて呼ぶことになってるんでしたっけ? 男の子なんでしょう。どうして女の子の制服を着てるのかと思ってねえ。そういうの許していいのかしら。ちゃんとしてないのはちょっと。男親だけで気がまわらないのかしらと思ってたのよお。うちの子にも影響があるかもしれないし?しっかりした方が見てくださってるなら大丈夫と思っていいのかしら。
しゃべっている間も彼女たちテンションは上がり続けているとみえ、不快なものいいに遠慮がなかった。
(うちの子へのエーキョーとか、子供本人がいる前で普通言うか)
ラギーはこの話がこのまま続くことがプラスのものを生み出すとはとても思えなかったし、口の上手さには自信があった。だから適当に別の話題をふってこの話を終わらせようと口を開きかけたが、それは先に発せられた小さくてはっきりした声にさえぎられることとなった。
「ふっこちゃんは」
言葉を続けていた醜悪な大人たちがはたと声をだすことをやめるのに十分な響きをもった声だった。
「ふっこちゃんは、園長先生に女の子の服が着たいですってお願いしてキョカをもらいました。男の子が女の子の制服着ちゃだめって決まりはないから、ちゃんと他のおやくそくが守れればいいよってなりました」
有無を言わせないまっすぐで正しい事実だけを述べた言葉だった。だが、そういった言葉を口に出していうことの難しさを、レオナとラギーは知っていた。そして、その正しい事実を受けいれない人間がいることも。
「あのねえ、決まってなくてもね、男の子が女の子の服を着るのはだめなことなのよ。世の中ってね、そういうものなの」
本物のナイフをつきつけられても泣かなかった子供が、目に見えない刃物をつきつけられて今にも泣きそうな顔をしている。悔しさをいっぱい目に湛えて、自分がそこにいることを否定されたくなくて、立っていた。それはかつてエメラルド色の瞳の獅子の子供が、スラムのうす汚れたハイエナの子供が、そうしていたのと同じだった。枠組みに押し込められ無理やりかたちを変えられそこから出るなと、それが悪意や暴力だという自覚もなく命じる大人に傷つけられた子供と、同じ。
「別にいいだろ」
沈黙を破ったのはレオナだった。
「別に、いいんだよ」
レオナはもう一度言った。
ふっこちゃんのかたちのいい小さな頭に大きな手がのせられた。それに倣ってラギーもその上に手をのせた。ふっこちゃんはそのまま小さくうなずいた。彼女にできるせいいっぱいだった。
先ほどまでとは違うぞんざいなレオナの口調と態度に怖気づいたのか我にかえったのか、大人たちはあらとかええととかいいながら場を解散してどこかに行ってしまった。最初から最後まで身勝手な人たちだった。ああいう人たちはいつもそうで、反撃される前にどこかに姿を消してしまう。
「うちに、帰りましょ」
ラギーがそういって差し出した手を、ふっこちゃんは小さな手で握り、レオナの方にもう片方の手を差し出した。レオナはその手をとって、三人で並んで歩きだした。
口数がそれほど多い方ではないけれど、三人で歩くときに何か話しはじめるのはだいたいふっこちゃんだった。だが今は無言で、かわいそうなくらい耳としっぽがたれていた。レオナもラギーも、何も言わなかった。傷ついた子供をうまく励ませるほど二人は完全な大人ではなかったし、自分たちもずっと傷を抱えてようやく癒え始めた、というより癒し始めたところだった。
「……のどが渇いた」
そういってレオナは小さな商店の店先にあるラムネをあごで指した。
「……ふっこちゃん炭酸飲める?」
ラギーがたずねるとふっこちゃんは首を横にふって
「しゅわしゅわするやつ飲めない……」
と言った。
結局ラムネを二本と、ふっこちゃんも飲めるフルーツ入りの乳酸飲料を買って、店の横に置かれた広告入りの古いベンチに座った。
「レオナさんラムネ飲んだことあるんスか?」
「ない」
「やっぱり……」
こうやってビー玉くぼみにひっかけないと口がふさがって飲めないんスよ、とラギーが手本を見せると難なくレオナも同じようにした。ふっこちゃんは二人のやり取りをじっと見ている。
「中のビー玉取り出せねえのか」
「割らないと出せないっスよ。」
ふうんとレオナが言う。なぜ突然ラムネなんか飲みたいと言い出したのか、ラギーにはわかった気がした。
「ビー玉、出られなくてかわいそう」
それは子供の素直な感想だったのだろう。だがそれを聞いたレオナは一気に瓶の中身を飲み干し、それから詠唱を行うと一瞬で瓶を砂に変えた。
「手出せ」
目の前で起こったことに目を丸くしていたふっこちゃんは言われるままに手を出した。そこにころん、と落とされたひとつのビー玉。
「外に出る方法なんて、いくらでもあるんだよ」
ふっこちゃんは黙ってビー玉を見つめていた。小さな手の中でビー玉は透明に光っている。
「これは内緒だけどな」
レオナが声のボリュームを落とすとふっこちゃんが顔をあげてレオナの目を見る。
「俺は王子だけど王宮を抜け出してここに来たんだよ」
「なんで来たの?」
いつかも同じ質問をされたな、とレオナは思った。ふっこちゃんの目はあの時よりも期待と好奇心に満ちている。ラギーが隣でさあどう答えるという顔をしているのが面白くない。答えは決まっていた。
レオナは不意打ちでラギーの肩を抱き寄せると
「こいつと一緒にいるためだ」
と笑って見せた。
ラギーはちょっと!それこの子に言うとこですか!? と慌てふためいたが、ふっこちゃんは二、三度まばたきをして、それは素敵ね! と表情を輝かせた。ラギーもあきれつつその言葉をきいて笑った。
別にいいんだよ、男が女の制服を着てたって。ライオンの王子がハイエナと一緒に暮らしたって。レオナは彼女の表情に満足して手に残った砂を払った。
彼らの前にはどこまでも海が広がり、少女の手の中のビー玉と同じようにきらきらと光っていた。
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